2009年11月12日

成功体験と予算の有無

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なまじ成功体験があると、それが尾を引き、揚げ句に足を引っ張るという。
本当だろうか。
成功した経験のない人間のやっかみかもしれない。

逆に成功体験がなければ、どうすれば成功するのか不案内であるし、もし自分が成功への道をひた走りしていたとしても、それが必ず成功へと通じる道なのだという感触すらつかめないだろう。

それに、1つのことで頂点を極めた人間は、何をやってもかなりいい線までいく、なんてこともよく言われる。

さて、あるとき予算の少ない仕事をしていた。
見かけは同じ仕事をするにも、予算のあるところは、たぶんわれわれの10倍くらいのお金をかけていたのではないかと思う。
いや、10倍ではきかないかもしれない。

で、予算がないから、一人で何役もかけ持ちだった。
働けど働けど、わが暮らしは楽にならなかったのだが、本職以外のいろいろな仕事をかけ持つことは、それはそれで楽しいことではあった。

だから、ある程度、その状況に満足していたのだが、あるとき、あることが気になった。

もし、この予算のない仕事に慣れきってしまったら、貧乏根性が体の芯にまで染みついてしまい、もし、潤沢な予算を与えられたとしても、それをどう使えばいいのか見当もつかないような人間になってしまうのではないか、ということだった。

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2009年11月10日

函館囚われの身

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部屋の窓から柵越しに函館山が見える。
柵がない方がいいのかもしれないが、私にはこれの方がふさわしい。

函館の町の魅力にからめ捕られたその結果、借りてしまった部屋だから。

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2009年11月01日

一幅の日本画のように

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白い壁に蔓を張り巡らせた蔦が赤く色づいていた。

こういう蔦というのは、偶然に一種独特の幾何模様を描くことがあって(星でいえば、北斗七星が柄杓の形に見えるようなものだ)、そういうのはいわゆる「絵になる光景」なのだけれど、今日見た蔦はあいにく何かに例えられるような形状ではなく、ごく普通に、あるがままに蔓を張り巡らせていた。
おまけに壁だって、塗られてさほど年月を経ない、新しそうな真っ白な壁だった。

だがその何気ない、ありきたりの蔦の様子に心惹かれた。
それは、なぜか。

理由を自問してみるに、それが一幅の日本画のように見えたから、だということに気が付いた。

日本画というのは独特の様式があるらしく、写生はしても写実ではないという。
たとえば草花の生える様子を丹念に観察したところで、その通りには描かない。
蔦を描くとするなら、いくつもの蔦を観察して、「これが蔦というものだ」みたいな最大公約数的な形や色を見つけ出し、それを絵筆で紙に定着する。
梅の文様などもその典型であり、文様を見れば「これは梅だ」と誰にでも理解できるのだけれど、その文様通りの形に咲いている梅の花などは存在しない。

「普通の人」と聞けば、「こういうのが普通の人だ」というイメージを思い浮かべるのは容易いけれど、世の中に絵に描いたような普通の人など存在しない、ということとよく似ている。

そんなこんなで、この蔦が私を呼び止めた。
たぶん。

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2009年10月20日

加工したくなる現実と、複製したくなる現実

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バブルのころ、ある工場を撮った4×5のポジから、電線を消して、再び4×5のポジを作成してもらうという作業を印刷会社に依頼したことがあったが、その料金は1点で何と約30万円であった。

今思えば、バカみたいな値段である。
それくらいの作業は、今なら私にだって簡単にできる。
画像処理の中では、電線を消すことなど、かなり初歩的なものである。
しかし当時は、設備の償却やオペレーターの技術料などを考えると、金額的に安くはないとはいえ、「まあ、仕方がないか」くらいに思える価格だった。

とにかく現在、デジタル画像処理技術は、非常に身近なものになってしまった。
色調、コントラスト、明度、彩度、その他いろいろな要素を、撮影が終わってから、簡単にコントロールできるようになった。

ある意味で、写真絵画に近づき始めたと言えるだろう。
自分がものにした画像が、自分の印象から遠くても、後からいくらでも近づけられるという可能性があるわけだ。

このような状況で、写真における画像処理の是非については、さまざまな議論があるようだ。
ドキュメンタリーをめざすか、自己表現をめざすか、という撮り手の意図の違いもある。

ただ、個人的には、画像処理はアリだと思っている。

上がりを見て、手を加えたくなるか否かというのは、あくまでも主観の問題であるし、手を加えたくないと思った画像が、必ずしも現実を忠実に複製できているとも限らない。
さらに言えば、世の中に完璧なドキュメンタリーなど成り立つわけがないと思っている。
電線を消すくらいは、かわいいものだ。

まあ、コンテストなどで「画像処理禁止」と謳われているのは、技巧の未熟さを画像処理で誤魔化してはいけない、という意味だろうけど、絵画に近づきつつある写真にとって、そんなことは枝葉末節。
要はその画像が、観る人にインパクトを与えるかどうかだけではなかろうか。

もう1つ言えば、素人に画像処理でインパクトのある写真をつくられてしまっては、審査する側のプロたちが食えなくなってしまうという切実な問題があるのかもしれない。
あれこれ理屈をこねてでも既得権益を守りたいという点は、写真のプロも政治のプロも変わらないというわけだ。
だが結局、審判を下すのはその本人にあらず、というのが浮世の定め。

ちなみに、写真が出現したとき、多くの画家が食えなくなり、写真は禁止にせよ、という運動が起こったという。

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2009年10月19日

一と二とでは

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読んで字のごとく、一眼レフと二眼レフの違いはレンズの数だが、機能面でのいちばんの違いは、一眼レフはレンズ交換が可能で、二眼レフはレンズ交換が不可能、ということになっている(いずれも一部の製品を除く)。

ただし、これは通常のまっとうな使い方をする上での話であって、手荒なことをすれば二眼レフだってレンズ交換が可能だ。

一般的にレンズ交換ができないと言われる二眼レフで、いったいどうすればレンズが交換できるのかというと、ドライバーを使ってレンズボードを外し、他の二眼レフからレンズ部分を移植する、という手があるのだった。

てなことで、今日の写真は、リコーニューダイヤに、巻き上げ不良となったリコーダイヤコードのレンズ部分を移植して撮ったもの。
二眼レフなんていうカメラの内部構造は、まるでカメラの原点とも言うべき、ほとんど暗箱に近い状態。
いたってシンプルであるため、機械いじりは素人の私にだって、これくらいのことはできてしまう。

それに引き換え、機械として、はるかに進化を遂げた一眼レフだと、ミラーがあったり、プリズムがあったり、シャッターの機構も複雑であったりするがゆえに、別のカメラの部品を素人がガバッと移植するなんてことは、まず考えられないのだ。

これは、昔の車が「オーナードライバーなら、ボンネットを開けて、基本的な整備や簡単な修理くらいはできなくてはならない」というものだったのに対し、今の車は「ボンネットの中は一切さわらず、すべてサービスマンにお任せください」というものになってしまったみたいな違いと言えよう。

もちろん、素人の作業というのはあくまでも素人であり、プロの仕事にはかなわない。
今日の写真にしても厳密に見れば、意図したところよりもピントが若干ずれている。
レンズの移植には成功したものの、仕事としては不完全だったわけだ。
しかし、この程度なら、撮影時に絞りを少々絞り込むことで、誤魔化しがきく範囲である。

さて、一眼レフと二眼レフ、どちらが偉いか。

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posted by squareworld at 01:14 | Comment(0) | 大阪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする