2009年10月20日

加工したくなる現実と、複製したくなる現実

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バブルのころ、ある工場を撮った4×5のポジから、電線を消して、再び4×5のポジを作成してもらうという作業を印刷会社に依頼したことがあったが、その料金は1点で何と約30万円であった。

今思えば、バカみたいな値段である。
それくらいの作業は、今なら私にだって簡単にできる。
画像処理の中では、電線を消すことなど、かなり初歩的なものである。
しかし当時は、設備の償却やオペレーターの技術料などを考えると、金額的に安くはないとはいえ、「まあ、仕方がないか」くらいに思える価格だった。

とにかく現在、デジタル画像処理技術は、非常に身近なものになってしまった。
色調、コントラスト、明度、彩度、その他いろいろな要素を、撮影が終わってから、簡単にコントロールできるようになった。

ある意味で、写真絵画に近づき始めたと言えるだろう。
自分がものにした画像が、自分の印象から遠くても、後からいくらでも近づけられるという可能性があるわけだ。

このような状況で、写真における画像処理の是非については、さまざまな議論があるようだ。
ドキュメンタリーをめざすか、自己表現をめざすか、という撮り手の意図の違いもある。

ただ、個人的には、画像処理はアリだと思っている。

上がりを見て、手を加えたくなるか否かというのは、あくまでも主観の問題であるし、手を加えたくないと思った画像が、必ずしも現実を忠実に複製できているとも限らない。
さらに言えば、世の中に完璧なドキュメンタリーなど成り立つわけがないと思っている。
電線を消すくらいは、かわいいものだ。

まあ、コンテストなどで「画像処理禁止」と謳われているのは、技巧の未熟さを画像処理で誤魔化してはいけない、という意味だろうけど、絵画に近づきつつある写真にとって、そんなことは枝葉末節。
要はその画像が、観る人にインパクトを与えるかどうかだけではなかろうか。

もう1つ言えば、素人に画像処理でインパクトのある写真をつくられてしまっては、審査する側のプロたちが食えなくなってしまうという切実な問題があるのかもしれない。
あれこれ理屈をこねてでも既得権益を守りたいという点は、写真のプロも政治のプロも変わらないというわけだ。
だが結局、審判を下すのはその本人にあらず、というのが浮世の定め。

ちなみに、写真が出現したとき、多くの画家が食えなくなり、写真は禁止にせよ、という運動が起こったという。

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2009年10月19日

一と二とでは

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読んで字のごとく、一眼レフと二眼レフの違いはレンズの数だが、機能面でのいちばんの違いは、一眼レフはレンズ交換が可能で、二眼レフはレンズ交換が不可能、ということになっている(いずれも一部の製品を除く)。

ただし、これは通常のまっとうな使い方をする上での話であって、手荒なことをすれば二眼レフだってレンズ交換が可能だ。

一般的にレンズ交換ができないと言われる二眼レフで、いったいどうすればレンズが交換できるのかというと、ドライバーを使ってレンズボードを外し、他の二眼レフからレンズ部分を移植する、という手があるのだった。

てなことで、今日の写真は、リコーニューダイヤに、巻き上げ不良となったリコーダイヤコードのレンズ部分を移植して撮ったもの。
二眼レフなんていうカメラの内部構造は、まるでカメラの原点とも言うべき、ほとんど暗箱に近い状態。
いたってシンプルであるため、機械いじりは素人の私にだって、これくらいのことはできてしまう。

それに引き換え、機械として、はるかに進化を遂げた一眼レフだと、ミラーがあったり、プリズムがあったり、シャッターの機構も複雑であったりするがゆえに、別のカメラの部品を素人がガバッと移植するなんてことは、まず考えられないのだ。

これは、昔の車が「オーナードライバーなら、ボンネットを開けて、基本的な整備や簡単な修理くらいはできなくてはならない」というものだったのに対し、今の車は「ボンネットの中は一切さわらず、すべてサービスマンにお任せください」というものになってしまったみたいな違いと言えよう。

もちろん、素人の作業というのはあくまでも素人であり、プロの仕事にはかなわない。
今日の写真にしても厳密に見れば、意図したところよりもピントが若干ずれている。
レンズの移植には成功したものの、仕事としては不完全だったわけだ。
しかし、この程度なら、撮影時に絞りを少々絞り込むことで、誤魔化しがきく範囲である。

さて、一眼レフと二眼レフ、どちらが偉いか。

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2009年10月17日

夜からの贈り物

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函館の名物は、いったい何か。
それは人それぞれだろうけど、「夜景」と答えれば、多くの人から賛同が得られる。

函館山に登れば、海に挟まれた市街が見える。
やがて陽が沈むと、それが海を縦に分断する光の帯として浮かび上がる。
全国に夜景の名所は少なくないが、こんな光景には、まずお目にかかれない。

こうして上から町全体を見下ろした夜景だけでなく、十字街の電停に立ち、地面と並行の視線で眺める「まちづくりセンター」方面の夜景も捨て難い。

ライトアップされた「まちづくりセンター」のレトロな建物。
その手前には市電の鉄路が、車のヘッドライトや信号灯の色とりどりの光を映し、闇にその緩いカーブを際立たせる。

函館山からにせよ、十字街電停からにせよ、夜景を撮るのは意外と簡単で、きれいだと感じた方向にカメラを向け適当にシャッターを切る。
手ブレさえ気を付ければ、そこそこさまになる写真が勝手にでき上がるし、ブレたらブレたで、それもまた雰囲気がある。

ただ、労せずに名作もどきが撮れるということは結構曲者。
どの写真も似たり寄ったりで、これぞ、と言えるような特徴を備えた快心の作はなかなか撮れない。

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2009年10月16日

マリア様は、どこから見ても女だった

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よく知らないが、キリスト教は非常にわかりやすい宗教ではないかと思う。
別に宗教論に足を踏み入れようというわけでなく、非常に浅薄なレベルなのだが。

たとえばまず、登場人物が少ない。
イエス様とマリア様、それと弟子若干名。

バイブルも聖書1冊(いやいや、バイブルとは聖書のことであった。しかし、世の中には「仏教のメッカ」なんて言い回しを平気で使う人々がいる)。

その点、仏教なんかは、教典は山ほどあるし、ブッダ様以外にいろいろな仏様や菩薩様、その他徳の高いキャラクターがたくさんいらっしゃる。

また、とくに思うのは、キリスト教の場合、イエス様は男、マリア様は女、てな具合に登場人物の性別が非常にわかりやすいということだ。

仏教の場合、ブッダ様は元々どこそこの王子だったというから、王女でないわけで男であるが、弥勒菩薩や千手観音、吉祥天をはじめ、登場キャラクターの多くは、どうも性別不祥なのだ(私の勉強不足なだけかもしれないが)。

なぜ、このように違うのか。

キリスト教徒の方がアホで、複雑なことを理解できないからだろうか。
いや、そうも言えまい。
なぜなら、仏教徒を名乗る人間だって、さまざまなお経についてや、仏様、菩薩様たちのことについて、全員が全員、きちんと理解しているわけではないからだ。

ただ仏教徒のみなさまは、その広範で複雑な教義は理解できないにせよ、それが説く人の世というものが、決して単純でなく複雑極まりないことだけは、十分に承知しているのではないかと思う。

何でも理屈で割り切りたがり、即決即断をよしとする西洋キリスト教系の人々と比べて。

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2009年10月15日

文字の氾濫する時代に(印刷・出版業が盛んなはずの京浜工業地帯のみなさまへ)

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日本開闢以来、たぶん今ほども、人々が文字を介したコミュニケーションに勤しんでいるという時代はなかったと思う。
それはひとえに、携帯メールの出現によるもの。

こういう時代が来る前には、「活字離れ」が危惧され、批判された時代があった。
だが、時代は変節を繰り返す。
携帯メール花盛りの今、「活字離れ」を批判することは、現実として不可能となった。
その分、大人たちは、それに使われる語彙の乏しさや表現の未熟さを、新たな仮想敵国と位置づけ始めた。

新しいものには、絶えず批判が向けられる。
だが、その批判の隙間からサブカルチャーと呼ばれる果実がこぼれ落ちる。

かつての活字離れの時代には、大人たちの白い目をよそに、コミックアニメーションが誕生し、やがて市民権を獲得した(その首謀者も大人たちだったが)。
そして今やそれらは、わが国の貴重な戦略的輸出産業とも言えるまでに成長した。

携帯メールに向けられる批判も、見方を変えれば、乏しい語彙や未熟な表現は、「行間を読む」という大和民族の得意技に磨きをかける、という可能性もなくはない。

携帯にカメラ機能が備わるようになった今、簡単に写真を添付できるということが文章による表現力の低下を助長する、という考え方も当然成り立のだろうが、個人的には、「画像+テキスト」というパッケージが、1つの表現形態として市民権を得る日を心待ちにしている。

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2009年10月14日

身体の畏れ

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用が済めば引退していただくというのが、その人のため。
リタイア後の人生にもいろいろあるが、やがては死んで荼毘に付される。
広い地球には土葬や鳥葬も残っているが、いずれにせよその存在は消えてなくなる。

物だってそうだろう。
用が済めば廃棄物となって処理される。
空き缶などは、ペシャンコにしてリサイクル
アルミ缶程度ならば、子どもにだって踏みつければペシャンコにできる。

それが車や建物となるとそうはいかない。
大人にだって、持ち主がそれを破壊するということは困難だ。

当然、車や建物は、破壊するにも力がいるため物理的に不可能というのもあるが、たとえばマイカーが用済みになったとして、それを自らの手で、こん棒などを使って破壊するということは、きっと誰だってためらいがあるのではないかと思う。
経済社会の論理では、自分で金を払って買ったものは、どう処分しようと原則は自由なのだが。

たぶん人間は、自分の身体よりも大きなものに挑みかかる、ということにある種の畏れを抱くものではないかと思う。
その対象に生命があろうと、なかろうと。

自分の持ち物だからといって自分の手で破壊できるのは、マネキンあたりの大きさが限界ではなかろうか。

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2009年10月13日

左派と右派

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写真を撮るときはいつも、水平と垂直をきちんと出したいと思うのだが、こういう場合はちょいと困る。

石の柱が垂直になるように撮れば、バックのレンガ塀が左に傾いているように見えるし、レンガ塀が水平になるように撮れば、石の柱が右に傾いているように見える。

こういうのは、右翼と左翼の関係や、右翼と中道、中道と左翼の関係とよく似ている。

実際のこの現場は、石の柱が少し右に傾き、レンガ塀が少し左に傾いていたと記憶しているが、石の柱が左に傾き、レンガ塀がそれよりもさらに左に傾いている場合や、レンガ塀が右に傾き、石の柱がそれよりもさらに右に傾いている場合も、石の柱が垂直になるように撮れば、写真はこのような仕上がりになる。

さしずめこの写真は、右翼の中華思想ってあたりか。

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2009年10月10日

旅先の本能

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チェックインしてしばらくの間の、ホテルの部屋は落ち着かない。
ホテルに限らず、新しい部屋に越した場合も同様。
まさに、借りてきた猫、というのがピッタリだ。

それはたぶん、体の奥底に潜む動物的本能の仕業だ。
見知らぬ環境に身を置けば、警戒心が頭をもたげる。

新しい部屋もやがて古い部屋となり、警戒心からも解き放たれたような感覚になる。
だがそれは、あくまでも思い込みであり、百パーセント警戒心が鳴りを潜めるわけではないはずだ。

いくら「古い部屋」でリラックスしているつもりでも、故郷の生まれ育った家に帰ったときの安らぎにはかなわない。
幼いときに刷り込まれた「自分の巣はここである」という感覚は、生きている限り、たぶん消し去ることは不可能だ。

さて、旅先では、家庭内で暮らしているときよりも、ある種の行為に及びたくなる。
それを実行に移すかどうかは別として。

それは、旅というのが本来、「侵略」という行動を伴うものであったからではないかと思う。
そして「侵略」という行動の本質は、その他人の土地を自分の子孫の住む土地に変えてしまうことに他ならない。

慣れた相手とでも、旅に出ればその手の行為に及びたくなるのは、旅の高揚感からではなく、侵略の代償行為としてではなかろうか。

これは男に限っての話。
女には、なったことがないのでわからない。

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2009年10月09日

脱亜入欧に感じる純粋

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明治時代に、こういう建物が出現したときというのは、周囲の人々にかなりのインパクトを与えたのではないかと思う。

今でこそ日本人は、西洋の文物を見慣れているが、明治時代というのは、いくら「文明開化」が叫ばれようが、どっぷりと鎖国時代の延長の中で生きていたのだ。

もちろん、国際化、国際化と叫ばれ、海外からもたらされたものが溢れんばかりの今の世でも、さらに一般大衆の知らない「舶来物」を仕入れて悦に入っている奇特な人は絶えないものだ。

だが、悲しいかなそういう人々は、必ずしも周囲から、尊敬や憧れの眼差しで見つめられはしない。
なぜならば、そういう人々が「舶来物」をひけらかすのは、あくまでも自分の値打ちを高めたいと思っているからであり、さらに悪いことに、そういう意図というのはすぐに見破られてしまうからだ。
(やたらと欧米を引き合いに出して、「だから日本はダメなんだ」みたいなことを、すぐにのたまう進歩的文化人たちも同様だ)

さて一方、明治の世で、海外からの文物を日本に広めようとした人々は、どういう思いでいたのだろうか。

たぶんきっと、そういう人々の胸の中には、自己主張よりも
「このままでは日本はダメだ。この日本を何とかせねばならない」
といった国を思う気持ちが強かったのではないかと思う。

確たる証拠があるわけではないが、そうであったに違いないと思うし、絶対にそうであったと思いたい。

まあ、それも程度物であって、「フランス語を国語にするべし」なんて言った人間は、行き過ぎて大事なことを忘れてしまっているとしか言いようがないが。

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2009年10月08日

おかしいのは誰

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町を歩いているときに何が気になるかというと、元来の自分の興味対象以外に、人が眺めているものというふうに相場は決まっているようだ。

自分などは生まれついての変わり者だから、カメラをぶら下げていても変なものしか撮らないのだが、人間のそういう習性のおかげで、たまに困ってしまうことがある。

たとえば、先日、富山県に祭を見物に行ったとき、祭の行列よりも格子窓から透けて見える一般家庭の宴の様子に興味がわき、その格子窓の方へカメラを向けていたのだった。

私としてはごくごく個人的な趣味の世界に没頭していたわけだが、そうやってシャッターチャンスを狙っている私の姿を見かけた見物人たちが、

「こうやってカメラを構えている男がいるということは、このレンズの先に何か面白いものがあるに違いない」

みたいな感じで、私が撮ろうとしている格子窓にへばりつくように、好奇心も旺盛に中を覗き込み始めたのだった。

当然、シャッターチャンスはお預けになるし、大勢の見知らぬ他人が家の中を覗き込むということは、その家の人にも迷惑なことこの上ない。

とはいうものの、私自身も勝手に他人様の家の様子を撮ろうとしていたわけで、一方的にその人々を責めるわけにもいかないし、「こら、どかんかい」と大きな声でお願いするわけにもいかないのだった。
だから余計に困ってしまった。

とはいえ、このときはまだマシといえばマシな方だと言える。
雪の上についたカラスの足跡や、資源ゴミ袋の内容物なんかを撮っているところを通行人に見つかると、たまったものではない。

最初は、何だ、何だ、とばかりに被写体に興味を示すのだけれど、ものの数秒も経たないうちに、不審者を見るような目で私に一瞥をくれ、逃げるように去って行く。

posted by squareworld at 22:53 | Comment(0) | 富山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月07日

招かれざる客になる

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函館に部屋を借りた。
ここのところ毎月、1週間ほど函館を訪れていて、毎度毎度ホテル代を払うのが不経済だと思ったからだ。

完全に函館の住民になりきってしまうというわけではなく、たぶんこれからも訪れる頻度やその都度の滞在日数は、これまでとさほど変わらないと思う。

だから、これからも函館では、一市民ではなく、一旅行者として過ごすのだ。

漠然とそんなことを思っていたが、借りた部屋で1人ポツンといるときに、ふと思った。

これからは函館に着いても、ホテルの人に「いらっしゃいませ」と迎えられることはなくなるのだ。
函館を後にするときも、ホテルの人に「お気を付けて。また、お越しください」と見送られることはないわけだ。

部屋を借りてしまってから、ホテル暮らしも悪くない、ということに気が付いた。

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2009年10月06日

旅の記録、旅の記憶

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旅の記録として写真を撮る。
そういうときに、意外に盲点となるのが、ホテルの部屋からの眺めではないか。

観光で訪れた場所の写真は、カメラを携えている限り、たぶんそこそこの枚数を撮ると思う。
だが、ホテルの部屋から見える町の景色は、そんなにも撮らない。
もちろん、眺望を理由にホテルやホテルの部屋を選んだ場合は別だろうけど。

観光地もいいのだけれど、その土地に滞在中、いちばん親しく付き合ったのは、ホテルから見える何の変哲もない町の景色だったりする。

あるとき、こういうことに気が付いて、泊まった部屋からの眺めを意識して撮るようになった。
いつも安い部屋に泊まるので、第三者が見て楽しめるような写真には、まずならない。

だが、これらの写真を後で見返すと、そのとき嗅いだ町の匂いが鼻孔の奥に甦るような気がするのだ。

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2009年10月03日

戯れ事よりも、リアルが怪しい

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こんなことをするのにも、昔はずいぶん手間がかかったと聞いている。
それが、いとも簡単に。
所要時間は、わずかの5秒。

すごい世の中になってしまった。
本当に困ったものだと思うのだが、喜んでいる人々もいるのだろうね。

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2009年10月02日

自省とやっかみ

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農家が田畑を耕すように、漁師が獲物と格闘するように、サラリーマンやOLが毎朝満員の電車で出勤するように、あるいは、テレフォンアポインターが電話の先の相手にいくらなじられようが生真面目に同じセールストークを繰り返すように、写真だけ撮って生きていけたらいいと思う。

だが、そんなことを思うなんて、虫が良すぎるに違いない。
こんな道楽者、世間が許すわけがない。
報酬とは、農夫のように、漁師のように、一般の勤労者のように、誰かの役に立ってこそ得られるものであって、他人様には何の役にも立たない趣味の世界で食べていこうなんて考える自体、大きな勘違いというものだろう。

自分自身こういうことは、つねに肝に銘じているのだが、なぜか世の中には「写真家」という職業が存在する。

音楽家もそうだし、ダンサーもそうだし、絵描きもそうだ。
スポーツ選手も同類と言えるが、近ごろはプロ・サーファーなんてのがいたりもする。

う〜ん、あやかりたい。

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2009年10月01日

シャッターを1度押したらサヨウナラ

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上の写真は去年の12月9日、下の写真は今年の8月16日に撮った。

日照等の撮影条件ということでは、下の写真の方が恵まれている。
だが、自分としては上の写真の方が、いいと思う。

同じ建物で、フレーミングもほとんど同じ。
なのに、この違いは何なのだろう。

上の写真は65ミリ、下は80ミリのレンズを使っているが、問題はそういうことではないような気がする。

たぶん、同じ被写体を2度狙ってはならないということだろう。

注)これはあくまでも私個人の話であり、一般化するつもりは毛頭ない。

posted by squareworld at 21:28 | Comment(0) | 函館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする