2008年11月27日

胎内

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板塀やアーケードのある奈良の町。
奈良に行くと幼児だったころを思い出す。

4歳の12月まで大阪市内の庶民的な町に住み、それ以後は大阪府南部の新興住宅地で育った。
奈良の景色は、そちらに越す前、ほんの幼かったころに見た景色とオーバーラップする。

大阪で私の住んでいた周辺は、大きな家も小さな家も築後何年も経ったような古い家ばかりで、どんよりとした白黒写真のイメージだった。たいていの家の壁は焼き板が貼られていて、服や手足がこすれると炭の色で黒く汚れた。
市内の比較的中心部だったから、これといった空き地もなくて、どこもかしこも家ばかり建っていたような記憶がある。
母親に連れられ買い物に行くのはアーケードのある公設市場で、そこに並ぶ店は全然まったくカラフルではなく、鮮魚や総菜が並ぶすぐ上では、モーターに取り付けられたハエ取り紙がグルグル、グルグル回っていた。

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アーケードに入って少し行った地べたには、いつも傷痍軍人が白っぽい着物を着て、這いつくばるように座っていた。
片足の膝から下を失ったその元軍人は、たぶん廃物利用だろう、白地に「広島カキ」と書かれた四角いブリキ缶を前に置き、買い物客の浄財を待っていた。
私の母親もときおり5円玉だとか10円玉をそのブリキ缶に入れていたが、缶の中をのぞくと100円札や500円札なんかも入っていて、幼児は幼児なりに少ないボキャブラリーながら、今にして思えば「奇特な人もいるものだ」というようなことを感じていた。
ちょっと話はそれてしまうが、国鉄天王寺駅から近鉄デパートに行く歩道橋の上にも、いつも物乞いがいて、アルマイトの弁当箱を前に置き、前を通り過ぎようとする人々に声を上げて施しを乞うていた。
それを見て「この人にもお金をあげようよ」と母親に言ったら、「ああいうのは極道や。働きもせん者にお金なんかやらんでええんや」と、かなり強い口調で私の考え方を矯められた記憶がある。
私はひどく驚いてしまったが、母親が怒った意味もまた、幼児なりに理解できた。

お金のことで言えば、「くずぃー、おはらいー」という呼び声とともに、ときおり古新聞やボロ布を回収する人が回ってきた。今はもうそんな言い方はできないだろうけど、当時は「屑屋さん」と呼んでいた。
天秤棒の片方に古新聞やボロ布を吊るし、棒についた錘をスルスルと滑らせ、はい10円、これは15円だとか言ってお金をくれる。
どうしてこんないらなくなったものに気前よくお金を払うのだろうか。それにしてはあまりお金持ちそうに見えないのに。これもまた幼児なりに、素直にそんなことを思ったものだ。

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やがて私たち一家は、たまに電車に乗って、郊外に家を見に行くようになった。まだ建設中の家だった。
おやつを持って、ただただ電車に乗り遠くへ行くだけで嬉しかったので、何をしに行くのか、なんてことは考えたこともなかった。最後にその家に向かったときも、そうだった。

最後にその家に向かった日付は今も覚えている。昭和38年12月22日。
それから二度と大阪の家には帰ることがなかった。
その日を境に、私たち一家はこの郊外の家で暮らすようになった。
早い話が、引っ越しをしたのだった。

今の言葉で言えば、まさにサプライズもいいところだった。
わが家は広くなったし、新しくなったし、風呂も付いている。
大阪の家にも風呂があったらしいのだが、私が生まれるまでに潰れてしまっていて、ずっと銭湯通いだった。
大阪の家は全部畳の部屋だったが、新しい家には床にピータイルを張った洋間もあった。玄関も引き戸からドアに変わった。

町内はまだ建築中の家や更地もあるような典型的な新興住宅地。後で知ったことだが沼を埋め立てて造成したそうである。
ともあれ、くすんだ色の焼き板の壁ばかりだった私の身の回りの景色は、真新しいモルタルの白やブルー、薄いピンク色が陽光に輝く明るい世界へと180度変化した。

周辺には農家ばかりの集落があり、さすがにそこでは焼き板の壁も多かったが、土地がゆったりしているので家屋の密集の度合いが違う。
古い農家でもどんよりとした雰囲気ではなく、いつも光が降り注いでそれは明るいイメージだった。
母親に連れられて買い物に行くのも、公設市場ではなく、当時日本に広まり始めたばかりのスーパーマーケットだった。
蛍光灯に照らされた明るい店内。客が自分で選んだものをカゴに入れて最後にレジで支払いをする。公設市場では天井からゴム紐のようなもので吊るされた籠にお金が入っていて、客が払った金はそこに入れられ、暗算や算盤で計算されたお釣りもそこから支払われたが、スーパーではレジスターという便利な機械が使われていた。

子どもの世界もまるっきり違った。
道端で遊ばなくても、家が建つ前の更地もあったし、稲刈りが終わった田んぼもあって、毎日が冒険のようだった。
農業用の水路でザリガニ、ドジョウを網ですくう。運が良ければフナやモロコも引っかかった。
ときには遠出をして、農業用の水路から比べれば大河のような二級河川に魚をとりに行った。ある日、そこにはメダカがたくさんいることを発見したのだ。
あるときメダカをすくっていたら人間の手足のようなものが流れてきた。
息が止まるほど驚いたが、よく見ればマネキンだったのでホッとした。

春、田植えが始まる前の田んぼには一面にレンゲソウが咲いていた。
その花を茎からもぎり、花びらを取り除いてチュウチュウと吸う。そうすれば蜜の味がすると誰かが言ったからだ。だが、ほとんど甘さなどは感じられなかった。それでもどこかに甘いレンゲソウがあるはずだと思い、田んぼに行くたび飽きもせず吸った。
春はこのほかモンシロチョウやアゲハチョウを捕まえたし、秋にはバッタやカマキリを探しに行く。稲刈りの終わった田んぼには藁がうずたかく積み上げられていて、それを勝手に積み替えて基地のようなものを作って戦争ごっこをする。百姓のじいさんに見つかって追い掛け回されたりもする。大人と子どもの知恵比べが始まるのだ。

私がそうやって少年時代を過ごした地域も都市化が進み、今の子どもはそんな腕白はできそうもない。ビデオゲームをしたり塾に行ったりして、都会の子どもと同じように過ごすのかもしれない。
ああいう時代にああいう子ども時代を送れたことはとてもありがたいと思っている。
だが、こうして当時を振り返っても、ああ楽しかったな、と思う程度で、懐かしさも切なさもほとんど感じることはない。

日本語には、物心がつく、という言葉があって、そこからたいてい人間の記憶はスタートすることになっていて、感情や考え方が形成されるのは、その物心というものがついてからというのが一般的な考え方であって、その意味で私がかたちづくられたのは郊外に越してからということになるのだろうけど、今も思い出したとき心の琴線を震わせるのは、郊外に越してからではなく、幼児のころ大阪で見た風景だ。

あの傷痍軍人や屑屋さんは、あれからどういう人生を歩んだのだろうか。公設市場はどうなったのだろうか。私の住んでた家や町は……。
ああいう白黒写真のような光彩の中で、母親や父親は生まれてまだ日も浅い私にどういう願いを託していたのだろうか。
まだまだ日本が貧しかった時代で、家計のやり繰りもさぞかしたいへんだったろう。お金の価値も、10円、15円というのではなく、1円、5円だっておろそかにできない時代だった。

家の周りを埋め尽くすように立っていた焼き板の壁も、はるか以前に取っ払われているに違いない。
だけど奈良に行けば、今も焼き板の壁がある。当時とはもちろん様子が違うとはいえ、アーケードの下で買い物をする人がいる。
そういう奈良の町を歩くたび、幼児だったころの記憶が堰を切ったように溢れ出す。

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posted by squareworld at 00:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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