バブルのころ、ある工場を撮った4×5のポジから、電線を消して、再び4×5のポジを作成してもらうという作業を印刷会社に依頼したことがあったが、その料金は1点で何と約30万円であった。
今思えば、バカみたいな値段である。
それくらいの作業は、今なら私にだって簡単にできる。
画像処理の中では、電線を消すことなど、かなり初歩的なものである。
しかし当時は、設備の償却やオペレーターの技術料などを考えると、金額的に安くはないとはいえ、「まあ、仕方がないか」くらいに思える価格だった。
とにかく現在、デジタル画像処理技術は、非常に身近なものになってしまった。
色調、コントラスト、明度、彩度、その他いろいろな要素を、撮影が終わってから、簡単にコントロールできるようになった。
ある意味で、写真は絵画に近づき始めたと言えるだろう。
自分がものにした画像が、自分の印象から遠くても、後からいくらでも近づけられるという可能性があるわけだ。
このような状況で、写真における画像処理の是非については、さまざまな議論があるようだ。
ドキュメンタリーをめざすか、自己表現をめざすか、という撮り手の意図の違いもある。
ただ、個人的には、画像処理はアリだと思っている。
上がりを見て、手を加えたくなるか否かというのは、あくまでも主観の問題であるし、手を加えたくないと思った画像が、必ずしも現実を忠実に複製できているとも限らない。
さらに言えば、世の中に完璧なドキュメンタリーなど成り立つわけがないと思っている。
電線を消すくらいは、かわいいものだ。
まあ、コンテストなどで「画像処理禁止」と謳われているのは、技巧の未熟さを画像処理で誤魔化してはいけない、という意味だろうけど、絵画に近づきつつある写真にとって、そんなことは枝葉末節。
要はその画像が、観る人にインパクトを与えるかどうかだけではなかろうか。
もう1つ言えば、素人に画像処理でインパクトのある写真をつくられてしまっては、審査する側のプロたちが食えなくなってしまうという切実な問題があるのかもしれない。
あれこれ理屈をこねてでも既得権益を守りたいという点は、写真のプロも政治のプロも変わらないというわけだ。
だが結局、審判を下すのはその本人にあらず、というのが浮世の定め。
ちなみに、写真が出現したとき、多くの画家が食えなくなり、写真は禁止にせよ、という運動が起こったという。

