白い壁に蔓を張り巡らせた蔦が赤く色づいていた。
こういう蔦というのは、偶然に一種独特の幾何模様を描くことがあって(星でいえば、北斗七星が柄杓の形に見えるようなものだ)、そういうのはいわゆる「絵になる光景」なのだけれど、今日見た蔦はあいにく何かに例えられるような形状ではなく、ごく普通に、あるがままに蔓を張り巡らせていた。
おまけに壁だって、塗られてさほど年月を経ない、新しそうな真っ白な壁だった。
だがその何気ない、ありきたりの蔦の様子に心惹かれた。
それは、なぜか。
理由を自問してみるに、それが一幅の日本画のように見えたから、だということに気が付いた。
日本画というのは独特の様式があるらしく、写生はしても写実ではないという。
たとえば草花の生える様子を丹念に観察したところで、その通りには描かない。
蔦を描くとするなら、いくつもの蔦を観察して、「これが蔦というものだ」みたいな最大公約数的な形や色を見つけ出し、それを絵筆で紙に定着する。
梅の文様などもその典型であり、文様を見れば「これは梅だ」と誰にでも理解できるのだけれど、その文様通りの形に咲いている梅の花などは存在しない。
「普通の人」と聞けば、「こういうのが普通の人だ」というイメージを思い浮かべるのは容易いけれど、世の中に絵に描いたような普通の人など存在しない、ということとよく似ている。
そんなこんなで、この蔦が私を呼び止めた。
たぶん。

